松代町の歴史と概況

秩父山地に源流を発し、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』で知られる千曲川。その千曲川に沿って長野盆地(善光寺平)の東岸に広がるのが、古くは河東(かとう)と呼ばれた地域です。松代町はこの河東エリアの中心地として、以前はJR長野駅や善光寺のある千曲川西岸よりも栄えていました。現在の松代町は、昼間は長野県を代表する観光地、夜は長野市南端の閑静なベッドタウンという顔を持っています。現在も農業が盛んであり、特産品の長芋(ながいも)を始め、もも・あんず・ぶどう・りんごなどが作られています。昭和41年に長野市の一部(長野市松代町)となったため、正しくは市町村制度における「町」ではありませんが、現在でも松代「町」という名称がついています。

松代大橋から見下ろす千曲川。信濃川となって日本海に注ぎます

松代大橋から見下ろす千曲川。信濃川となって日本海に注ぎます

松代大橋から眺める松代町。中央は皆神山とロイヤルホテル

松代大橋から眺める松代町。中央は皆神山とロイヤルホテル

果てしなく広がる長芋畑。それでも耕作面積は全盛期の半分とか

果てしなく広がる長芋畑。それでも耕作面積は全盛期の半分とか

長野といえばリンゴ。もちろん、松代町内でも栽培されています

長野といえばリンゴ。もちろん、松代町内でも栽培されています

松代町内にはブドウ畑も広がっています

松代町内にはブドウ畑も広がっています

川向かいの川中島(桃の一大名産地)にも負けない松代の桃

川向かいの川中島(桃の一大名産地)にも負けない松代の桃

松代町・初夏の里山風景

松代町・初夏の里山風景

かかしコンクールも開催されます

かかしコンクールも開催されます

看板によれば、松代はエノキ茸発祥の地でもあるようです

看板によれば、松代はエノキ茸発祥の地でもあるようです

桜の季節の松代城趾(海津城趾)

桜の季節の松代城趾(海津城趾)

毎年10月に開催される松代真田祭(背景は松代病院)

毎年10月に開催される松代真田祭(背景は松代病院)

松代町周辺に人類が住み着くようになったのは、原始時代にまで遡ります。高台にある東条地区など、松代町内の至るところで古墳が発見されています。河東エリアは対岸の川中島エリア(千曲川と犀川が合流する地点)とともに肥沃な大地を有しており、日本人の祖先が定住して農耕に従事するのに適していたようです。

戦国時代になると、主要街道の分岐点となったこの地域は、交通・軍事上の要地として、有力武将により烈しく争奪されることになります。武田信玄と上杉謙信による川中島合戦の舞台として、あまりにも有名です。このとき、信玄が参謀の山本勘助に命じて築城させたのが、江戸時代に歴代の松代藩主が居住した松代城(海津城)です。一方の謙信が陣を構えた妻女山も、やはり松代町内にあります。数回にわたった川中島の合戦において、最大の激戦地となったとされる川中島八幡原(当院から車で数分)には、現在でも多くの史跡が残されています。ちなみにこの川中島の合戦、最後まで勝敗は決しなかったものの、以降善光寺平は武田方の領有となりました。

徳川家康が江戸幕府を開いてから約20年、政情が安定しなかった松代藩に、上田藩からから新しいお殿様がやってきます。真田十勇士で知られる真田幸村の兄、真田信之です。勇将・知将の誉れ高い真田幸村は、大阪の陣で豊臣家とともに果てましたが、兄の信之は徳川家康の信用も厚く、真田松代藩初代藩主として重用されました。戦国時代においては、一族の血を途絶えさせないために、兄弟が敵対する両群に別れて戦うということは、決して珍しいことではなかったそうです(注;この兄弟は本当に仲が良くなかったとする学説もあるそうです)。

真田信之の松代城入城によって、松代は松代藩真田十万石の城下町として栄えますが、江戸中期以降は諸藩同様に財政難に苦しみます。さらには真田氏直系の家系も途絶えますが、松平定信の次男である幸貫を8代藩主に迎えると、その幸貫は江戸幕府老中という要職を兼任し、幕末の巨人・佐久間象山を登用し、藩校の再興を図るなど藩政の立て直しに尽力します。そのような努力もあって、真田松代藩は明治維新まで存続します。

やがて明治政府による廃藩置県で松代藩は松代県となり、すぐに長野県に編入されて長野県松代町となりました。その後は周辺地域を合併したり、分町したりしながら埴科郡松代町として経過し、昭和41年の大型合併で長野市松代町となり、今日に至ります。

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JA長野厚生連

長野松代総合病院

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